ただ春の夜の夢のごとし
追いかけても届かない背中があるのだと知りました。
十六歳の春の夜です。
それまで、叔父はボクにとって、憧れの人であり、尊敬できる大人でした。たった一人の、特別な人でした。
特別という意味では、全く何も変わらないのです。
ただ、別れ際に、
「またな、省吾」
と叔父が笑って手を振った瞬間。
心の何かが壊れました。
緩やかで、ほんの少しだけ冷えた夜風が、ボクに吹き付けて、ボクは一歩だけ後ろに下がりました。
心の中で何かが崩れていって、新しい何かが生まれていく感覚に、ボクは胸を押さえました。
叔父は、ボクを見て、瞼を見開きました。
「泣いているのか?」
泣くほど別れを惜しんでくれるなんて、嬉しいなと、叔父が照れます。中国奥地の大学で講師をしている叔父は、フィールドワークによって、鍛えられた体をしています。ボクに冒険物語として語ってくれた話の多くが実話であり、叔父は何度か命の危険に晒された経験もあります。そのためか、眼光鋭く強面なのです。が、こんな風に、照れたり、破顔して笑うときは、意外性というか、なんというか、とても……魅力的に感じるのです。
心が壊れます。何度も、何度も崩れていきます。
取り返しがつかない。ボクはもう、なす術無く、叔父を見てただただ泣きました。
きっと報われないと分かっているのに、心はボクの所有物であるはずなのに、どうしようもなく、ただただ新しい感情が生まれ育っていくのを、ボクは受け入れるしかありませんでした。
「さようなら、正孝叔父さん」
ボクはうまく笑えたでしょうか。
叔父は眉間にしわを寄せて、なんだか、哀しそうな、どことなく怒ったような表情をしました。
「……叔父さん、さよなら」
ボクはもう、たまらなくなって、視線を落としてから、瞼を伏せました。
「また、会いにくる」
叔父の声は至極真摯であり、ボクは叔父の低い声に酔いしれました。しばしの沈黙の後、叔父が歩き出した音が聞こえました。ボクは、うつむいたまま、叔父の足音を聞きました。
叔父が車の扉を開け、乗り込みます。
エンジンがかかった音で、ボクはある違和感を覚えました。
どうして叔父は、笑わなかったのでしょうか?
また、会いにくるなんて、いつもお決まりの別れの言葉です。
ボクが叔父を敬愛しているというのは、家族も兄弟も、叔父自身も知っています。
ボクが、なかなか感情を言葉にできないから、家族は気を使って、見送り役をボクだけに任せてくれています。
離れ難いボクの悲しい気持ちを見透かして、叔父はいつも、また会いにくると、朗らかに宣言して立ち去ります。
「……どうして、叔父さん? ……どうして、……あ、あっ!」
ボクは口を押さえました。足から力が抜けて、その場にうずくまりました。
嘘だろう?
叔父は、ボクの気持ちに気づいたのかもしれません。ボクの体から、血の気が引きました。
叔父は、ボクの変化を目の当たりにして、いつものように朗らかに、いつもの言葉を言わなかったのです。叔父は、ボクの変化に気づかなかったふりを、しなかった。
ボクは混乱しました。
どうしたらいいのか、もう、何も分からないのです。
叔父に、生まれたばかりの気持ちを、知られたかもしれない。かといって、ボクにできることなど、何もないのです。
叔父に、気持ちを告白なんて、できるはずがない。
いや、それ以前に、ボクの気持ちを知って、叔父はなんと思ったのでしょう。ボクは頭を抱えました。
ボクの気持ちに気づいたのなら、答えをくれても良かったのではないかと、ボクは叔父を心中でなじりました。しかし、すぐさま、責められるべきは、ボク自身なのだと思い直しました。
叔父は、何も悪くない。
ただ、……恋をしたボクが、悪いのだ、と。
終
現実逃避に、筆の赴くまま。
凛として健気な子が、敵わぬ恋に悶々とするのがいいな。
でも、個人的に、自作品はハッピーエンド至上主義なので、いつか必ずくっつくとは思います。